イクキン
1、 タイトル
「京都の近代化につて 東京遷都後京都の復興策」
2、テーマ
①テーマについての説明
京都は平安京遷都以来、1000年以上もの長きにわたり、都として栄えてきました。しかし、1869(明治2)年に東京遷都が行われると、約10万人もの人口減少に加え、産業も急激に衰退。そのため、京都復興を目指し様々な殖産興業政策が実施され、近代化が進められました。西洋の技術を導入する一方で、西陣織など京の伝統産業の技術革新、全国に先駆けての小学校の開設、理化学を研究する京都舎密局の設立など、多岐にわたる取り組みにより新しい産業が興るなど、京都は次第に活力を取り戻していきました。
②目標
目標としては、京都の明治から大正に至るの近代化について、その歴史を明らかに調査しで、まとめる。
③テーマにした背景
京都は794年の遷都から、1869年の東京奠都までの1000年以上にわたって日本の首都としていた。遷都によって,公家や有力商人達が京都の街を離れ,京都の人口は35万人から20万人余りに激減してしまった。そのため、京都府は復興させようとして計画を立ち上げる。京都はどうやって、近代化を実現したのかを調べていきたいと思うのでこのテーマを選んだ。
④ そのテーマに関する先行研究、および、それらに対する評価や批判。
京都の近代化の先行研究で、近代化を大きな役割を果たしたのは京都市三大事業、第 二琵琶湖疏水、上水道、道路拡築および電気軌道の敷設です。
幕末・維新から30年を経て、荒廃した京都の市街地の復興がすすみ、かつ産業振興策の推進によって経済活動も拡大し、人口・物流ともに大幅に増加していたからです。人口は、維新後の1873年は江戸後期に比べて10万人減少の23万8,000人でしたが、1880年代後半から盛り返し、1899年年には36万人近くにまで増えています。市域が拡大したので単純比較はできませんが、市内中心部に限っても毎年1万人規模で人口が膨らんでいきました。人口が増加にたいし、生活・産業の両方で大量のエネルギー、水、各種物資が必要になってきます。こうした状況を改善するべく、京都市では欧米の大都市をモデルに諸施策が練られました。
私は今回、京都市三大事業を中心として調査を行おうと思っています。
⑤これまでに講義科目やゼミなどで勉強したこととの関連性。
京都の近代化につて、東京遷都後京都の復興策に関する調査は今までの講義科目やゼミなどとの関連性はあんまりないです。
⑥卒業論文との関連性
卒業論文の内容は都市建設などについて取り上げたいと思います。この調査は、卒業論文の準備として考えています。
3.実施計画の詳細
①実施内容と方法
これからの春休みで、調査場所の中で今住んでいるところを近い場所を行って、事前調査をします。
夏休みでは、三大事業の現場で調査をするつもりです。
②スケジュール
2月―4月 自宅、それから今住んでいるところを近い調査場所を行って、事前調査をして、大纲を作る。
4月-8月 資料を調べて、未完成版を作る。
8月-9月 現場調査をして、完成版を作る。
③協力者・協力機関
京都市歴史資料館 連絡先075-241-4312
同じく琵琶湖疏水を調査する友たち
④調査場所
琵琶湖疏水記念館 京都市左京区南禅寺草川町17
京都市歴史資料館 京都市上京区寺町通荒神口下る松蔭町138番地の1
⑤危険業務の有無
無しです
4、準備作業の進捗状況
①取り組んだこと
文献調査 10月から12月
②明らかになったこと
京都の復興活動
京都の商工業は、公家や有力商人への依存度が高かったので、遷都はまさに大痛手でした。その衰微は著しく、人口も維新前の35万人から20万人近くへと急減してしまいます。この、存亡にかかわる危機をどう切り抜けるかが焦眉の急でした。ここで立ち上がったのが、1868(慶4)年に開設された京都府でした。初代知事・長谷信篤(ながたに・のぶあつ)が中心となって獲得した租税免除の特典や10万円の産業基立金、15万円の勧業基立金などを資金に、街の復興に向けてさまざまな施策を実施します。これを引き継ぎ、勧業政策・開化政策を推進したのは二代知事・槇村正直(まきむら・まさなお)でした。槇村は、明石博高(あかし・ひろあきら)・山本覚馬(やまもと・かくま)といった有能な政策マンを登用し、矢継ぎ早に施策を展開します。この、槇村の施策に町衆(京都の商工業者)が呼応し、京都の振興策すなわち近代化が進んでいくのです。
三大事業
幕末・維新から30年を経て、荒廃した京都の市街地の復興がすすみ、かつ産業振興策の推進によって経済活動も拡大し、人口・物流ともに大幅に増加していたからです。人口は、維新後の1873年は江戸後期に比べて10万人減少の23万8,000人でしたが、1880年代後半から盛り返し、1899年年には36万人近くにまで増えています。市域が拡大したので単純比較はできませんが、市内中心部に限っても毎年1万人規模で人口が膨らんでいきました。人口が増加にたいし、生活・産業の両方で大量のエネルギー、水、各種物資が必要になってきます。こうした状況を改善するため、第二琵琶湖疏水(第二疏水)建設、上水道整備、道路拡築および市電敷設を行い、近代都市に不可欠の基盤装置・設備を整備しました。
琵琶湖疏水建設
琵琶湖疏水建設は1890年4月9日、竣工式にこぎつけ、大津から蹴上への導水が成りました。引き続き行われていた“蹴上以降”の本線水路(鴨東運河)工事も同月中に完工し、琵琶湖の水はインクライン下部の南禅寺舟溜りから夷川閘門(えびすがわこうもん)を経て直接、鴨川に注がれることになりました。大津―蹴上に運搬船が就航したのは1891年7月ですが、その間の1891年5月に待望の蹴上発電所が完工し、11月に送電が開始されるやインクラインの動力も水車から電気式に切り替えられました。
さらに、蹴上と伏見を舟でつなぐため、鴨東運河と接続する水路(鴨川運河)を鴨川東岸に新設する工事も1892年11月に始まり、1894年9月に開通。翌1895年1月から運用が始まっています。同年3月には伏見(墨染)インクラインも完工し、大津―(疎水)―蹴上―(鴨東運河・鴨川運河)―伏見―(宇治川・淀川)―大阪の水運ルートが開通したのでした。
琵琶湖疎水の開通と運用は、電力・水力の動力源や運輸のほか、灌漑を含む用水確保など、多大な恩恵を関連地域にもたらしました。
③不十分な点
京都の復興策、すなわち京都策は3期に分ける、この調査の中心は京都市三大事業
ですが、三大事業は第三期で、その前の2期は調べていない、これからの資料調査はこの前の2期を調べたいと思います。
5、 個人的意義
①「最大のチャレンジ」になると思われるもの
自分にとっては最大のチャレンジと思うものは、まず今回の計画書です、自分計画書をかくのは初めてなので、けっこ難しかった。それからは現場調査時のインタビューだと思います。
②期待される具体的なスキル
この「フィールド・スタディーズ」で、まず自分の日本語が鍛錬できるだと思います。それからインタビューをする経験が得られる。
③その他
「フィールド・スタディーズ」の履修でこれから計画書をかく経験がない私が計画書をかく経験があった、そして、インタビューをするチャンスもあって、自分に対しては一つの突破だと思います、今後、生活の中で、会社の中で、これらの経験が役に立つだと思います。
6、資料リスト
参考文献
京都し上京区役所 東京遷都と京都の復
https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012512.html 最終閱覧日12月2日
国土交通省 首都機能移転問題と「東京遷都」
https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec16.html 最終閱覧日12月2日
京阪電車 京都ツウのススメ
https://www.okeihan.net/navi/kyoto_tsu/tsu201009.php 最終閱覧日12月2日
小林 丈広 , 高木 博志 , 三枝 暁子 「京都の歴史を歩く」 岩波書店 2016
高橋 昌明 「京都〈千年の都〉の歴史」 岩波書店 2014
佐々木 克 「江戸が東京になった日―明治二年の東京遷都」講談社 2001
高野澄 「京都の謎 東京遷都その後」 祥伝社 2020
京都市編 「京都の歴史」 學藝書林 1979
京都商工会議所百年史編纂委員会編「京都経済の百年」京都商工会議所 1985
京都市上下水道局「琵琶湖疏水記念館常設展示図録」京都市上下水道局 2009